2013年の「とよにし応援団」発足以来、何度も会合に出席してくださっていた三澤房續(みさわ ふさつぐ)さんが、この5月28日に亡くなりました。享年94。物静かな、本物の紳士でした。折々にお聞きしたこと、調べたことから、三澤さんの生涯について記録しておきたいと思います。
三澤さんが逓信省航空機乗員養成所に入所したのは1942年4月。前年12月には太平洋戦争が始まっていました。同養成所は本来は民間のパイロットを養成する学校でしたが、1年間の講習ののち卒業生の多くは予備役の下士官、つまり軍人になりました。同期生では三澤さんだけが中華航空に就職して北京に行き、操縦士としてオランダ製の6人乗りの小型機に乗りました。北京はすでに1938年に日本軍によって占領されており、中華航空も関東軍や中華民国臨時政府の出資のもとに経営されていました。
しかし三澤さんの民間機パイロット時代はわずか半年で終わりました。1943年のうちにはもう陸軍に招集されて浜松に行き、重爆撃機を操縦させられました。当時の重爆撃機は全幅20メートルを超え、1トンまでの爆弾を積めるものです。特別操縦見習士官として、陸軍浜松飛行学校では学徒出陣の操縦候補生や少年飛行兵の教官ともなりました。三澤さんは19歳の未成年ですが、生徒には23、4歳の人もあったということです。夜間は船団の護衛で飛び、昼間は教育にあたり、1日に10時間操縦したこともあって、終戦までに1800時間ぐらいは乗ったそうです。自衛隊の操縦資格保持の最低飛行時間は年間90時間ですから、3年余で1800時間というのは、ものすごい数字です。
1944年10月に三澤さんは台湾を経てフィリピンに行き、爆撃機を操縦しました。60機ばかりあった僚機は米軍の攻撃で7機になり、米軍機に追われながら日本に帰還しました。
復員した三澤さんは東京都に就職しました。都職労(東京都区職員労働組合)で活動し、1973年から「北二税支部」の大会代議員、さらに中央委員の選挙に当選していますが、中央執行委員にはなっていません。同支部から中央執行委員も出ていますので、三澤さんは職場の支部長の任務に専念して、仲間を中央執行委員に出したのでしょう。
このころの都職労では500人の大会代議員のうちから250人の中央委員が選出され、さらに中央委員のうちから50人の中央執行委員が選出されていました。「中央委員」とは要するに中央執行委員選挙人ということになります。5巻本の『都職労の歴史』巻末の役員名簿には中央執行委員以上しか掲載されていないので、残念ながら三澤さんのお名前はありません。また機関紙『都職労』の役員選出経過記事には粗密があったり、77年には役員選挙制度が変わったりしているので、いつからいつまで三澤さんが「北二税支部」の支部長をしていたのか、いつまで中央委員に選出されていたのかは確認できませんでした。
本年5月30日付『しんぶん赤旗』訃報欄には、三澤さんの経歴について「60年入党、元党北地区委員、元都職労中央委員」の記載があります。この場合の「北地区委員」とは「日本共産党東京都北地区委員」です。職場地域の東京都北区で党役員にもなっていたわけですが、これも年代は不明です。三澤さん本人からは「党北地区委員長を務めたこともある」とうかがいました。終戦直後の、共産党が労働組合のなかで急速に伸びた時代ではなく、安保闘争が広範に取り組まれた1960年に共産党に入党されたのは、熟慮の末と思われます。
1970年代の都職労は総評・自治労のもとにあって、国政選挙では社会党候補を応援していました。当然、支持政党の自由をめぐっては労組内で激しい対立があったはずです。80年代の総評解体、ナショナルセンター再編の動きのなかでは、都職労では全労連に参加するか、連合に参加するか、どちらにも参加しない中立となるかが支部ごとに決められ、三澤さんの属していた「北二税支部」は全労連参加を選択しました。この選択過程では三澤さんはすでに定年を迎えていたものと思われます。
定年後の三澤さんは税理士の資格を得て、1989年に練馬に転居し、税務相談に当たりました。そして80歳を超えてから、飛行学校教官時代の証言活動を始めました。「それまでは生きているのが恥ずかしい思いで、人に話すことができませんでした」とは、彼の述懐です。三澤さんは直接、特攻隊員を送り出す立場ではありませんでしたが、かつての生徒のうち27人もが特攻隊員として散ったということです。あこがれの飛行機乗りになってすぐに陸軍の攻撃機を操縦させられ、しかも帰還を想定しない特攻隊員を養成する役割も果たしてしまった。そういう時代に青春を過ごされたということですね。特攻基地のひとつ鹿児島県の知覧で行われる特攻慰霊祭に三澤さんは毎年出席し、「特攻の母」として有名になった富屋トメさんの富屋旅館に宿泊しました。
私が2014年に知覧、鹿屋などの元特攻基地をめぐり、三澤さんに電話をして「いま富屋旅館に泊まっています」と報告したところ、「良く見てきてください」と言われました。知覧には特攻平和会館があり、周辺の遺構もいくつも残っています。そして鹿屋は今も海上自衛隊の航空基地です。
「戦争は、御前会議ですべてが決まったわけでしょう。東條英機も吉田善吾も松岡洋右も、みんな天皇の許可を得て戦争をやった。だから私は皇室を尊敬することには抵抗があります。」三澤さんの芯の強さの元を示す発言だと思います。会合の席ではいつも柔和な笑顔を見せながら、特攻の話をするときには声を詰まらせていた、三澤さんの姿を忘れません。
(2019.6.14 大内要三 写真は、航空機乗員養成所のポスターと、2014年の富屋旅館)