田中さんはしんぶん「赤旗」記者として活動され、引退後は豊西支部の支部長として地域での活動の先頭に立ってこられました。また、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟、いしずえ会、全日本年金者組合など幅広い活動をされてきました。こうした活動を物語るように、「しのぶ会」(2019年11月17日)には各界から会場が溢れんばかりの大勢の方にお集まりいただき「田中さんの思いは私たちが受け継ぐ」との決意を新たにするつどいとなりました。
田中穣二さん 略歴
- 1924年三重県生まれ。旧満州国建国大学政治学科在学中に学徒動員。建国大学は旧満州国国立のエリート大学で全寮制、日満朝蒙露の5族が共に学んだ。充実した図書館にはマルクス主義文献もあった。現在ソウルにある建国大学校とは無関係。
- 復員後、三重県の地方紙、伊勢新聞記者となる。労働組合活動でうたごえ運動等に参加。同新聞は同題号で日刊紙を刊行する新聞としては日本最古。
- レッドパージにより退社。上京して日本共産党勤務員となり、党の・混乱時に北京に亡命していた徳田球一らとの連絡員として派遣されたこともある。
- 1958年より『赤旗』編集局勤務。
- 1959年 佳那子さん(ロシア児童文学翻訳家、1999年没) と結婚。
- 赤旗編集局時代には社会部、日曜版編集部、政経部長、編集委員などを歴任。この間に発表した文章に、
『あすの農村』1975年1月号 田中から三木へ 政権交代にみる自民党の体質
『前衛』1975年3月号 社会党大会と「解同」朝田派の問題
『あすの農村』1976年6月号 統一戦線こそが危機を救う道
『赤旗日曜版』1981-82年連載 にほん語日本語
『前衛』1982年12月号 「赤旗」の「です・ます」調のすすめ
などがある。
- 1985年に定年退職後は東京都練馬区に居住して、日本共産党、治安維持法犠牲者国家賠償 要求同盟、いしずえ会、全日本年金者組合等で活動。この間も旺盛に執筆活動を進め、
『あすの農村』1986年2-3月号 暦は楽し
『あすの農村』1988年10月号 シーボルト展とカモシカ
『文化評論』1992年4月号、5月号 日本語がおもしろい 私の文章修行
『女性のひろば』1997年1月から連載 大きなクリの木の下で 妻を介護して
『人権と部落問題』2005年4月号 年金生活者の現状とたたかい
『とや英津子後援会ニュース』2015-18年連載 ジョージさんの豆知識
などを発表した。
- 2018年、老人ホーム「SONPOケア ラヴィーレ練馬」に入居。
- 2019年、没。
- 著書に以下のものがある。
『にほん語日本語』創芸社 1982年
『わかりやすく書く:文章修行』白石書店 1986年
『ミニコミ紙・ビラ・口頭宣伝:文章修行』白石書店 1990年
『たのしい日本語:文章修行』白石書店 1992年
『かな子の仕事:遺文集』私家版 2000年
『都江堰と創設者李冰父子:覚え書中国古代の水利施設』光陽出版社 2001年
『私八十歳になりました』私家版 2004年
『年男の独り言 84歳になりました』私家版 2008年
『続にほん語日本語』私家版 2018年