石黒昌孝さんを偲ぶ

練馬の豊玉九条の会や日本共産党とよにし応援団で活動され、2020年7月23日に89歳で亡くなった石黒昌孝さんのことを書き残しておきたいと思います。その業績とともに、はにかむような笑顔、大きな手を忘れないために。
石黒さんは1931年に東京で生まれました。日中戦争が始まった年です。千葉農業専門学校(現千葉大学園芸学部)農芸科学科で学んだのは、終戦をはさむ時期になります。卒業後は横浜税関、東京税関に勤務し、全国税関職員組合(全税関)に加入しました。以後、石黒さんは輸入食品の分析に一生を捧げることになりました。
税関は大蔵省(現財務省)に属します。大蔵省は1961年以降、戦闘的な全税関を潰そうと第二組合を組織させ、全税関から組合員を脱退させようとして、昇任差別、配転などの嫌がらせをしました。これに対して1974年に全税関の4支部430人が損害賠償と慰謝料を要求して、税関マル生裁判を起こしました。このとき石黒さんは全税関の委員長でした。この裁判は国家公務員が国を相手に起こした裁判の最初の例になりました。
マル生とは生産性向上運動のことで、この運動に関する文書に「生」の字を◯で囲んだスタンプを押したため「マル生」と呼ばれます。国鉄や郵政の例が有名ですが、労使協調を強要するマル生に反対する闘争は労働組合の分裂を伴いました。税関マル生裁判は長期化し、石黒さんの退職後の2001年に東京支部については最高裁判所で組合側の勝利となりました。
定年退職した石黒さんは、農民運動全国連絡会(農民連)事務局に移りました。そして農業者・消費者の募金による、行政・企業から独立した食品分析施設の設立のために奔走します。そして1996年に農民連事務局次長として東京・板橋区に農民連食品分析センターを開設、所長となりました。以後、石黒さんは食の安全と食糧主権を求めて全国で講演活動、テレビ出演、諸紙誌への執筆を旺盛に行い、この分野の第一人者となりました。
豊玉九条の会では、その創立にあたって呼びかけ人となり、2007年12月には「憲法と食の安全」と題して輸入食品の農薬汚染、危険な添加物について、幕の内弁当の食材の例を挙げて分かりやすく語りました。
著書に『それでも食べますか 輸入食品を分析してみると』(かもがわ出版、2002年)、『食品の安全最前線 食糧輸入大国ニッポンで』(自治体研究社、2010年)があり、また『関税中央分析所報』『みんなのねがい』『あすの農村』『女性&運動』『住民と自治』『前衛』『部落』『学習の友』『歴史地理教育』『女性のひろば』『食べもの文化』などの雑誌にたくさんの論文を執筆されています。


写真1 著書を手にする石黒さん 2010年

写真2 中国ギョーザの解説でテレビ出演する石黒さん 2008年

写真3 未来をひらく教育のつどいで報告する石黒さん 2009年